社史

~世界品質の顔料中間体をめざして~1955(昭和30)年~1965(昭和40)年

年号 セイカグループの歴史 時代背景
1955
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「和歌山精化工業株式会社」創業

1955(昭和30)年5月、当社は「和歌山精化工業株式会社」という社名を掲げ、創業した。資本金は100万円。竹田實が代表取締役になる。創業時の従業員は4名で、いずれも竹田が以前勤務していた化学会社の同僚だった。創業直後より染料工場で使用されるアニリンソルト、ジアニシジンの製造を開始した。
自由党と民主党が合体し、自由民主党誕生、長期安定政権時代に

通産省、石油化学工業育成方針を発表

化学繊維産業の活況により、合成染料生産量が年間2万トンを超える
1955
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ジクロロベンジジンヒドロクロライド(DCB)の開発に着手

アニリンソルトやジアニシジンなどの製造を続ける一方で、 竹田はこの間にかねてから国産品を製造しようと考えていた黄色系の顔料中間体DCBの開発に本格的に取り組むことにした。 DCBの合成に成功したのは、開発に取り組んでから3カ月以上が経過した1956(昭和31)年の3月で、本格生産するにあたり、 商品名を「ジクロジンH」と名づけた。 この商品が大手顔料メーカーに認められ、本格的な取引が開始するのはこれからさらに5年後の1961年のことになる。
1959
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化学工業メーカーとしての体制が整う

1959年4月、社内に初めて研究室を設置。創業から5年目にあたる第5期(1959年6月~1960年5月)には売上が1億円を突破した。 同じ年の9月にはジクロジンHに次ぐ黄色系顔料中間体であるテトラジン(テトラクロロベンジジン)の製造を開始した。 12月にはジクロジンHの需要に対応するため、最初の工場に隣接する場所に第2工場を建設した。 還元工程を二段式にするなどの新機軸を加えた同工場ではジクロジンHの月産20トンベースを実現し、増産体制を整えた。
メートル法施行

皇太子明仁親王と正田美智子さんご成婚
1964
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海外市場への進出

当社が初めて海外に進出したのは、1956(昭和31)年、青色系染料の原料であるファーストブルーBベース(ジアニシジン)の中国への輸出だった。 それ以降も東南アジアを中心にジクロジンHやファーストブルーBベースなどの製品を輸出し、実績を積み重ねていった。 輸出高は1959年度には1億円を突破し、1963年度の実績では2億円近い輸出高を記録したが、これは同じ年の売上全体の40%以上にあたる。 こうした輸出実績が評価されて、当社は1964年6月に通商産業省(現経済産業省)から輸出貢献企業としての認定を受けた。 その後もヨーロッパ、アジア・インド地域、アメリカへと相次いで渡り、市場調査と販路開拓を行うことで、より本格的に海外市場への進出を果たすことになった。
観光目的の海外旅行が自由化

日本がOECD(経済開発協力機構)に加盟

東海道新幹線が開業

東京オリンピック開催

日本がIMF8条国に移行、円が交換可能な通貨に

~変化への適合と企業体質の強化~
1966(昭和41)年~1995(平成6)年

年号 セイカグループの歴史 時代背景
1966
ビスアミン

硬化剤ビスアミンの製造を開始

この頃までの当社の主要製品は、創業製品となった染・顔料中間体アニリンソルト、ファーストブルーBベース、初の国産品となった顔料中間体のジクロジンH、同じく顔料中間体のジクロルジアニシジン、高級顔料中間体のテトラジンなどだった。 これらの染・顔料中間体に続くものとして1966(昭和41)年からポリウレタンやエポキシ樹脂向けの硬化剤の商業生産を開始し、ビスアミンという商品名で樹脂硬化剤市場に参入した。
わが国の総人口が1億人を突破

交通事故死者が戦後最多となり「交通戦争」が流行語に

戦後初の赤字国債発行
1973
セイカ商事本社(1970年代後半)

製販分離へセイカ商事を設立

1973(昭和48)年9月25日、当社は営業部門を分離して「セイカ商事株式会社」を設立した(現セイカ(株)、資本金1,000万円、代表取締役社長 竹田實)。 これによって和歌山精化工業の「製」と「販」は分離されたことになるが、グループ内で製造と販売を有機的に結び付け、統合的に展開させるという意味では、実質的には「製販一体」と呼んでいいものであった。それは時代のニーズあるいはユーザーからの要望に的確に応えられるような研究開発、新分野をみつめた製品開発に集中できる体制を整えることができたからである。

次代をにらんだ業容の拡大、つまり「セイカグループ」の歩みはこの時代から始まったと言える。
ベトナム平和協定調印、ベトナム戦争終わる

円が変動相場制へ移行

第4次中東戦争勃発

原油価格30%値上げ、石油危機始まる。 各地で買占め騒ぎ
1983
できあがった製品を倉庫へ移動

精伸興業を設立

1977年8月、和歌山市福島にあった紡績工場跡地を購入し、セイカ商事紀陽倉庫を建設した。

もともと紀陽倉庫は事故やトラブルなどの発生に備え、危険分散の狙いで開設したものだったが、生産量の増大や製造品目の多様化にともなって一時保管という単なる倉庫機能をこえて、積極的な物流の拠点として位置づけることが避けられないものになってきた。

そこで物流部門を担う業務ポジションを明確にするために、1983(昭和58)年4月にセイカ商事紀陽倉庫を分離独立させて「精伸興業株式会社」を設立した。 これによって染・顔料中間体、樹脂硬化剤の研究開発と製造を行う和歌山精化工業、それらの製品を販売するセイカ商事、製造全品目の在庫管理および調整と市場へ向けた流通機能を果たす精伸興業という、製造-販売-物流という一貫ラインが生まれた。
中国自動車道が全通(吹田~下関)

千葉県浦安市に東京ディズニーランド開園
1987
建設中の海南工場(1986年)

海南市に新工場を建設

1987(昭和62)年3月、福岡県大牟田市にある大牟田工場(1982年竣工)を和歌山市に隣接した海南市に「セイカ商事海南工場」として移転した。 海南工場に隣接する海南港には船が横づけできるバースがあり、接岸した船から原料をパイプで直接工場内のタンクに貯蔵できるので、荷役業務の効率は大幅に向上した。

1990年7月には高機能性ポリマー原料であるDPEを増産するための製造プラントの稼働を開始し、海南工場は高機能性ポリマー原料の生産拠点として急速に重要度を高めていった。
日本電信電話(NTT)株が上場

国鉄分割・民営化でJR発足

GNPが1万8,100ドルと世界一に

基準地価都市部で暴騰

ニューヨーク株式暴落、ブラックマンデー
1995
設立当時のOmniSpecialty Corp

海外における販売拠点の確立

世界最大の市場であるアメリカで着実に販路を拡大してきた当社は、1985(昭和60)年12月に樹脂硬化剤であるビスアミンの米国の販売拠点としてPDS Inc.を設立。また、1995(平成7)年8月にOmniSpecialty Corp.をアメリカ東部にあるニュージャージー州ティーネックに設立し、染・顔料中間体、高機能性ポリマー原料などの当社製品をアメリカ市場に送り込むことになった。

その後、1998(平成10)年1月にはPDS社を発展的に解消し、OmniSpecialty社で樹脂硬化剤や高機能性ポリマー原料の販売も集約した体制を作った。
関西国際空港が開港

阪神・淡路大震災発生、死者6,400人

1ドル=79円75銭の円最高値

製造物責任(PL)法施行

Windows95発売、インターネット急速に普及

~グループの総合力を全面展開へ~
1996(平成8)年 以降

年号 セイカグループの歴史 時代背景
1996
新社長となった竹田純久

竹田純久が社長に就任

1996(平成8)年1月、40年以上にわたって経営トップとして当社の業容拡大と社業の発展に取り組んできた竹田實が代表取締役会長となり、副社長だった竹田純久が新しく和歌山精化工業の代表取締役社長に就任した。 経営新体制の誕生となったこの年、1996年度の指針は「新たな飛躍へ 総力結集」である。新しいリーダーのもとにセイカグループ各社が一丸となって飛躍するという決意を込めたものだった。
住専処理法成立

O157集団食中毒発生

この頃より携帯電話急増

2001
ISO14001の登録証

ISO9002に続いてISO14001の認証取得へ

1995(平成7)年、最初に和歌山精化工業本社でジクロジンHの製造に関してISO9002の認証を取得。それに続いて海南工場、南陽化成でも認証を取得し、1998年にはセイカグループの製造部門すべてにおいて完全にISO9002対応となった。 セイカグループでISO9002を統一審査登録して以降、次に取り組んだのはISO14001だった。

環境マネジメントシステムの構築には苦労が多かったが、ISO9002を導入した経験を生かして2000年7月には和歌山精化工業本社工場が本審査にこぎつけ、審査登録機関であるJCQAからISO14001の認証を取得した。また、同時並行的にセイカ商事海南工場でもISO14001の導入を進め、2001年9月には本社工場に続いて認証取得を果たした。
中央省庁が再編され、1府12省体制に

米国映画のテーマパークUSJが大阪市にオープン

米・同時多発テロ事件発生

BSE(牛海綿状脳症)が千葉で発生、北海道・群馬に広がる

2005
創業50年史
創業50年記念祝賀会

和歌山精化工業が創業50周年を迎える

2005(平成17)年5月27日、当社は50回目の創業の日を迎える。創業者 竹田實が僅か従業員4人とともに「和歌山精化工業」を興し、ほとんど独力で黄色系顔料中間体DCB(ジクロジンH)の国産化に成功してから、半世紀という時間が流れたことになる。

創業50年を迎えるに当たり、記念祝賀会が開催され、また記念事業の一環として社史「技術が拓く未来」が発刊された。
中部国際空港開港

京都議定書発効

愛・地球博、名古屋にて開催

個人情報保護法施行
2006
セイカの森

「元気なモノ作り中小企業300社」への選定と「企業の森」への参画

2006(平成18)年4月、当社の持つ技術力や社会に対する貢献度が認められ、経済産業省中小企業庁より「元気なモノ作り中小企業300社」に選定された。 また同じ年、和歌山県の推進する、「企業の森」事業に参画。「セイカの森」と名づけられた植栽地には、従業員およびその家族らの手によって、苗木を植える植樹祭が行われた。その後も定期的に行われる下草刈りには、多くの社員・家族が参加し、交流・憩いの場としても活用されている。
第1回ワールド・ベースボール・クラシックで日本代表が優勝

東京オリンピック開催

日本がIMF8条国に移行、円が交換可能な通貨に
2012
DCB(ジクロジンH)の生産が終了

DCB(ジクロジンH) 57年の生産に幕を下ろす

2012(平成24)年7月27日、創業初期から主力製品として当社を支えてきた DCB(ジクロジンH)の生産が終了した。DCBは黄色系顔料の中間体で、当社が初めて国産品として開発した製品である。
世の中の印刷媒体がモノクロからカラーの時代へと変わるにつれ、その需要は一気に拡大し、当社の業績を大きく伸ばす役割を果たした。
しかし、近年の市場価格の下落などにより収益が伸び悩む中、ピンチをチャンスに変えるべく撤退を決断し、高品質・高付加価値製品の育成へと舵を切った。
東京スカイツリー開業

衆院選で自民党が大勝 第2次安倍内閣が発足
2013
セイカソーラー発電所が竣工

セイカソーラー発電所が竣工

2013(平成25)年9月17日、和歌山市西浜に「セイカソーラー発電所」が竣工。
和歌山の恵まれた自然エネルギーを活用した大規模な太陽光発電所が運転を開始した。
当社は、化学メーカーとして自然環境との共存無くして存在し得ないとの考えから、環境問題を経営の重要課題と位置付けている。
このソーラー発電事業もその一環で、推定で年間約990tのCO2削減効果が見込まれている。
富士山が世界文化遺産に登録

2020年夏季五輪・パラリンピックの開催地が東京に決定
2014
セイカ海南工場にSK-Yを竣工
セイカ海南工場にLNGを燃料とするボイラー設備し、運転を開始。

「スーパーファインケミカルメーカー」を目指し、次々と設備を増強

高品質・高付加価値製品を生みだす「スーパーファインケミカルメーカー」を目指す当社は、セイカ海南工場において2011(平成23)年12月にSK-Y、2014(平成26)年8月にSK-XAと相次いで電子材料用商材を製造するマルチプラントを竣工。

2013(平成25)年4月には航空機などに使用される炭素繊維複合材のエポキシ硬化剤「セイカキュア-S」の製造プラントであるSK-Lを増設した。
また、2014(平成26)年3月、同工場においてクリーンエネルギーであるLNGを燃料とするボイラー設備が運転を開始し、大幅な環境負荷低減を実現している。
消費税率が8%に引き上げ

JR東海、リニア中央新幹線の工事着工
2015
和歌山精化工業が創業60周年を迎える

中期経営計画「セイカ2018」をスタート

2015(平成27)年4月、当社は2015年度から2018年度に至る4年間の中期計画「セイカ2018」をスタートさせた。
これからのセイカグループの成長を支える“技術力”の向上に重点を置いたこの中期経営計画は、「あらゆる面で技術力の進化・深化を図り、成長を続ける企業に!」をスローガンに掲げ、未来にさらに飛躍しようという思いが込められている。

和歌山精化工業が創業60周年を迎える
2015(平成27)年5月27日、当社は創業60周年を迎えた。
記念の祝賀会には社員やOB、来賓の方々など総勢213名が出席し、創業当初からの長い道のりや、近年ではリーマンショックによる工場の休止、主力製品であったDCB(ジクロジンH)の撤退などの苦境に総力を結集して乗り越えてきたことを振り返った。
また、このような経験をセイカグループの発展に活かし、この先も世の中の役に立つ企業として成長していこうという決意を新たにした。
米国が9年半ぶりに利上げ

史上初の訪日外国人旅行者数1000万人突破

原油価格が暴落し6年半ぶりの安値に